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うたうたいたい

もう1ヶ月近くの間、カラオケに行きたいと思いつつ叶わずにいた。
今の我が家は東京とは名ばかりの郊外色満載な場所にあり(いろんな人に失礼)、
周囲にはカラオケの類がほぼない。
少し離れたところにぽつんと1軒あるのみなのだが、
そこはあろうことかフリータイム制を導入しており、
当然ながら学生たちの溜り場となって、常に満室状態。
この町は、大人なヒトカラ族にとっての超激戦区なのである。

先日、もう本当に辛抱ならぬ!という感じで、
朝一番、気合を入れて開店直後のその店に出かけた。
着いてみると、受付前にはすでに若者たちの行列ができており、
私はあと何部屋空いているのかと子羊のように震えながら順番を待った。
前も後ろも学割ユーザの中、一人ぽつねんと列に並ぶ三十路も半ばを過ぎた女。
果たして若人たちにはどんな風に見えているのか。
いや、彼らは私のことなど塵ほども気にしていないことは明白であるが。

幸い私の順番まで部屋は残っていたので、
ほっと胸をなでおろし、部屋に入った。

久しぶりのマイクの感触。
う、うれしい・・・!!

1時間ほど夢中で歌いまくった私は、
心軽く、肌つやもアップして、5歳ほど若返ってカラオケ店を後にしたのであった。


人はなぜ、歌うのだろう。

唐突に哲学的な問いかけをしてしまったが、
近ごろこれが本当に不思議なのである。

声を出すこと、リズムに乗せてメロディーを奏でることが、
なぜこれほどまでに喜びと快感を産むのか。

思えば私は昔から、歌うことが好きだった。
ほとんど音楽なんて聴かない子どもだったのに、
家ではいつも、知っている歌を、何度も何度も繰り返し歌っていた。

歌うことが、本当に楽しかった。

大人になるにつれて、いらん浅知恵やらプライドやらが邪魔をして、
歌えなくなった時期もあったけれど、
ひとりカラオケという日本の持つ素晴らしき文化により、再び歌は私の日常となった。

ただ声を出すのではダメなのだ。
歌でないとダメなのだ。
そして、心の底から歌えば、
それだけで全てが吹っ飛んで、
どこまでも自由になれるのだ。

・・・こういうことを書いてると、
自分は天性の歌姫なのではないかという気すらしてくる。
(念のため書いておくが、私は歌に関してはずぶずぶのド素人である。
 これからうまくなるべく、トレーニングに励んでいるのである。)

私の友人に、毎日走ることを始めたら人生が劇的に変わり始めた、という人がいるが、
(そしてそれに釣られて走り出している輩も何人もいて、かくいう私自身もそうなのだが)、
歌にも同様の効果があるような気がしている。

とにかく体を使った何かをすること、
それも、今までしたことのなかった何かをすることで、
人生は劇的に変わっていくのではないか。
だから、人生を変えたい人は、今までと違う体の動きをすればよいと思う。
走ることでも、歌でも踊りでも、なんならラジオ体操とかでも。
なんかこう、自分の体と脳の今まで使ったことのない部分を使うもの。

そう思うと、子どもの頃に体を動かす経験をたくさん積んでおくことは、
実に有意義なことであると思う。
好きでも嫌いでも、とにかくそのことに必要な回路を開通させておけば、
年月が経った後も比較的簡単に、何かしらの才能を取り出せるのではなかろうか。

どんどん論点がずれてきたが、
要は、カラオケ超楽しかったから、またいこっ☆というハナシである。


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リアル・ワールド

きらきら きらきら
君が笑うだけで 世界はばら色

この世界は遊園地 そう言い放つ君は
今日も全力で 泣いて 笑って 怒って そして
食べる 食べる 食べる 寝る

そんなに急がなくていいよ
もっとゆっくり ゆっくり進んで

そんなに早く ドアを開けないで
待ちきれないの

そんなに遠くを見つめないで
広い世界が待ってるの

たくさんの想いと たくさんの夢
ぜんぶぜんぶ置き去りにして
何もいらない まっさらな心で
君は歩き出す

たったひとり
この世界に抱かれて つかの間の現(うつつ)を生きる




早朝の怪

今年に入ってから、毎朝歩いている。

ウォーキングというほどのものでもない。
むしろ徘徊と言った方がいいかもしれない。
着古したTシャツにパーカーという、コンビニにでも行くような格好で、
雨の日を除き、毎朝小一時間ほど、そこいらを無作為に歩いている。

通っているフットケアサロンで勧められて始めたことだった。
何かを続けることが大の苦手の私が、
なぜかこれだけは続いている(といってもまだ4ヵ月そこそこだが)。
こんなことは人生で初めてで、我がことながら非常に驚いている。

続いている理由はわからない。
あまり目的もなくやっているのがいいのかもしれない。
初めは健康のため、歩き方を矯正するためだった。
しかし始めてみると、歩くことはあまりにも気持ちよく、
今はただただ無心で歩いている。
そうしないとなんだかバランスが悪いから、歩いている。

肩がこれば伸びをするように、楽しければ鼻歌を歌うように、
朝起きたらば、歩かずにはいられないのだ。
歩きたいという欲望を感じる間もなく、気付けばもう歩き出している。

もうひとつ、驚愕の事実がある。
この早朝徘徊のため、私は毎朝早起きをするのだが、
まったく目覚まし時計を使っていないのだ。

私が起きるのは、まだ主人も娘も寝ている時間。
主人の出勤前には家に戻らなければならないので、
その1時間ほど前に起きることにしていた。
が、近ごろは日の出が早くなってきたせいか、起床時間は日に日に早くなり、
今では主人が家を出る1時間半前には歩き始めている。
そうすると、自宅に戻ってからも少しは夫婦で話す時間があるし、
玄関で主人を見送るという愛妻プレイを楽しむこともできる。

目覚まし時計のアラームを使わない理由は簡単で、
私の隣で天使の顔をして眠っている娘を起こさないようにするためだ。
初めのうちは、夜中から何度も起きては時計を確認していたのが、
いつの間にかそれがなくなり、
今ではほぼ一発で、意図した時間に起きることができる。

あまりに普通にしていることなので、今までスルーしていたが、
先日ふと、
「・・・これってすごいことなんじゃね?」と気づいた。
うん、けっこうすごいことだと思う。よね?

以前の自分にはとても難しかったことが、なぜか今では至極簡単に意識すらせずにできている、
ということが、最近の私の人生には頻繁に起こる。
こわい。

さらに驚愕の事実がある。
5月に入って私は、あろうことか徘徊に加え、走ることまで始めたのだ。
週に3日ほど、15分程度の、
かろうじて「それ、ジョギングしてるんだよね?」と言ってもらえそうな程度のローペースではあるが、
なんだか走っちゃっているのである。

これはもう狂気の沙汰。
お前は一体何を目指しているのかと、本気で自分に問いたくなる。

この習慣、果たしていつまで続くのか、よもやエスカレートするなんてことはあるまいな。
自分のことが、本当によくわからなくなってきている今日この頃なのである。
こわい。



ゆめみるゆめこ


あのヒトに必ず会う、と決めた日から 世界が塗り変わった
モノクロのフィルターが外れたそれは 極彩色の景色だった

なんて 鮮やかで どす黒くて はかない色

全てのものは あの人につながる鍵
全ての道は あの人へ向かってのびる赤いじゅうたん

世界の全ては私のため
ただあの人に出会うため

毎晩ノートに書き綴る
何を話そう どんな顔しよう
どんな服を着て どんな声で どんな どんな どうにもならない

何度も呼ぶよ 何度も想うよ
あなたの隣に立って そこからどんな世界が見えるだろう
30センチの距離から聞くあなたの声は どんな感じがするだろう

あぁどうか お願いだから
前日には餃子なんて食べないでいて

愛しい君よ


未完


しずくが落ちた きみが笑う
進め 進め きみの世界へ
まっしろな まっさらな 何もない世界へ

そこに何を描く そこに何を見る そこに何を創る
そして誰を想う

ずっとずっと笑っていてほしい ずっとずっと
涙なんて一滴もこぼさずにいられたら しあわせ?
痛みなんて知らずにいられたら しあわせ?

きみは泣く きみは傷つく きみは笑う きみは生きる
橋の上 じっとしゃがみこんで 世界の底をのぞきこむ

光が差した きみが笑う
走れ 走れ きみの世界へ
その軌跡を映し出す きみだけの世界へ

そこに何を描く そこに何を見る そこに何を創る
そして誰を想う




DNA


私の娘は、産まれた時、私に全く似ていなかった。

何時間も腹を痛めて絶叫しながらようやく産んだ我が子は、
あろうことか主人に瓜二つであったのだ。
思わず「・・・本当にオレの子か?」と例の禁句を口にしそうになったほどである。

生まれたての赤子にあるまじき凛々しい眉毛、くっきりとした二重、
ほんの少しつり上がった目尻、小さくM字に結ばれた口元。
どこをどう見ても、私に似ている部分などひとつも見つからなかった。

そして、彼女は異様に可愛かった。
彼女を一目見た者はみな、口を揃えて「なんてかわいい赤ちゃん!」と叫んだものだ。
目がパッチリしていて、顔立ちがはっきりしていて、まるでハーフの子みたい、と。

そのような台詞を年配の方々に言われても、あぁどうもと思う程度だが、
道行くティーンな女子学生たちが振り返って
「見てあの子、超かわいくない?!」と言うのを聞いた時、
私は、嗚呼これは親の欲目ではない、この子は本気で可愛いのだ、と確信を持った次第である。

そして、「かわいいですね~!お父さん似ですか?」と無邪気な顔で尋ねられるたびに、
その言葉の残酷さをお前はわかっているのか、と内心で返しながら、
「そうなんですよ~」と穏やかに応じていた。
若干の切なさは残るが、その言葉は確かに事実であったので、
どこにも反論の余地はないのである。

そんな娘であるが、先日、衝撃的な事件があった。

1歳8ヵ月を迎えた娘と、自宅近くを散歩していた時のこと。
なぜかその日は妙にハイテンションではしゃぎまわっていた彼女であったのだが、
ある瞬間に私を見上げて、にぃっと笑ったのである。

あ・・・私だ。

その瞬間の娘の笑顔は、あろうことか私にそっくりであったのだ。
私は目を疑った。
幻覚を見ているかのような気分であった。
目の前に、自分の顔がある。
しかもなんだか、すごく幼い自分が。

驚きの後に、深い安堵と愛情の波がごちゃ混ぜになって押し寄せてきた。

そうか、やっぱり私の子なのか。
・・・そりゃあそうだわ。

そして自分に似ていると感じてもなお、私はこの子を可愛いと思っている。

娘を可愛いと思えることで、自分のこともより一層好きになれそうな、
そんな気がした、メルヘンな春の夕暮れ。



天上から目薬

本当の自分なんていなかった
壮大な夢なんてなかった
なりたいものも やりたいことも
生きたい場所も別にないし

それでも毎日 空を見上げて
大きな声で歌う ラララ

誰の言葉もすり抜けていった
分かち合う意味もわからなかった
ほしいものは全部ひとり占めして
最後まで味わいつくす

それでも毎日 空を見上げて
目を見開いた ラララ

降りしきる雨の せめて一滴くらい
この瞳を見つけてくれやしないか

だって誰もいないでしょう
この世界には 僕ひとりでしょう
彼も彼女も みんなひとりでしょう
となりにいても 銀河の彼方

それでも僕は 空を見上げて
真正面から待ち受ける
眼光鋭く天を仰ぐ僕は
世界で一番 勇敢で滑稽で孤独

そう、カミサマに喧嘩を売ってんだ






5月14日 渋谷クラシックス

友人のライブを見に行った。

彼が歌うのは過去に一度聞いたことがあるが、きちんとしたステージは初めてだった。

私はライブに行くと必ず、歌いたくてうずうずしてくる。
自分が目の前のステージに立って、マイクを握りしめる場面を想像してしまう。
いつの頃からか、そんな癖ができてしまって、
ライブのDVDを見るときも、アーティストが演奏している映像よりもステージから見た観客席の風景の方に夢中になる。

この場に自分が立っていたら、どんなにか楽しくて気持ちがいいことだろう、と思うのだ。

残念ながら私にはまだ、巨大な会場にぎゅうぎゅう詰めになった観客の前で歌った経験などないのだけれど、
これだけ何度も夢想していたら、そのうち本当に叶うんじゃないかという気がしてくる。

この日の彼のステージは、こぢんまりとした空間に程よい数の観客がいて、
ドリンクを片手にのんびりと演奏を聴くことができた。

ところでこのライブの最中、私は重大なことに気がついてしまった。
「自分は人の歌をあまり聴いていない」ということだ。
びっくり。

演奏が始まると、私の心はどんどん広がり始め、世界を旅し始める。
過去の意外な出来事が蘇ったり、未来に思いを馳せたり、
さまざまな感情が次々と走馬灯のように現れては消えたりと、
まことに忙しい。
そして気がつくと、歌は終わってしまっているのだ。

歌に、音に、いくら集中しようとがんばってもダメで、
気付くと私の心はふわふわと、どこか遠くへ行ってしまう。

これが私の音楽との関わり方なのだろうな、と思った。
私は音そのものを聴いているのではない。
音の持つエネルギーを全身で感じているのだ。
そして、私の心のブラックホールにある膨大な思いの中から、
特定の音に反応した特定の何かが、ひょこっと飛び出してくる。

もちろんこれは私だけの超個人的な体験であり、
同じ場で同じ音楽を聴いたところで、他人には決して、私と同じように聴くことはできない。
そのようなことが、ライブ会場にいる全ての人間の中でそれぞれに起こっていると思うと、
この世界のパラレルっぷりに気が遠くなりそうになる。

私がこの日の彼から感じたものは「愛」だった。
彼の背後に、巨大な赤字の明朝体で「愛」という文字がどどーんと浮かび上がってきたような気がした。
ド直球の、ストレートな愛だった。
とても心地よく、満ち足りた気持ち。
まるでフランス料理のフルコースを堪能したかのような気分で、私は家路に着いた。

いい夜だった。

リキタケカズヨ とは。

言葉と声で世界を変えるアーティスト。
仏の生まれ変わりのような夫と高飛車ツンデレ系の娘と共に、東京の片隅に暮らす。
主な表現形態は、歌、朗読、エッセイ、詩、踊りなど。

幼少期から、異常に世界と他人への恐怖心が強く、その反動から独自の世界観を創り上げてきた。
妄想が暴走すると、その心は宇宙の果てまで飛び出していくが、
外見からは全く悟られないため、いたって普通の落ち着いた人間だと思われがち。
言葉を綴ることと歌うことに、人生最大の喜びを感じがち。
最愛のバンド、ASIAN KUNG-FU GENERATIONのことになると我を失いがち。
ビビリでヘタレな性分である一方で、何の前触れもなく突然思い切ったことをしがち。

2013年3月、突如アーティストを自称し始め、人生初のライブを決行。
以来、数回のライブを重ねつつ、間に妊娠・出産もしつつ、
2016年春、やはり文章と歌からは生涯離れられない自分に観念したところ。

その声は、ド素人のつたないものでありながら、
人の心の奥深くを揺さぶり、あたたかな安心と信頼で包み込むと、
一部マニアの間で専らのウワサ。

姉妹ブログ『きのこ実験室』では、木下沢きのこの名で、一児の母の視点から、家族との日々を綴っている。
☆きのこ実験室


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