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父の日の絵から考察する幼稚園の世界

スーパーに買い物に行くと、
近所の幼稚園に通う子どもたちが描いた絵が展示されていた。
父の日シーズンだったので、父親の似顔絵を描かされたらしい。

うちの娘も数年後にはこんな絵を描くんだろうかねと思いながら見ていたら、
妙なことに気付いた。

そこにはクレヨンで描かれた数十枚の絵が並んでいたのだが、
その全てが、黒と肌色(今はうすだいだい色というらしい)と赤の三色だけで描かれていたのだ。
髪の毛と眉毛と目は黒、顔はうすだいだい色で塗りつぶし、口は赤。
全てがそのような配色になっていた。

さらによく見ると、
全ての絵において、顔だけが描かれていた。
バストアップとか全身とか、他の誰かが一緒に描かれているとか、全くない。
すべて同じ構図、というか、ただ紙いっぱいにでかでかと顔が描かれている。
しかも三色で。
まるで証明写真のような雰囲気である。

気持ち悪い、と思ってしまった。

何かしらの事情があるのかもしれない。
たまたま園に三色しかクレヨンがなかったとか、
あえて構図に制限を設けることで、各々の個性を伸ばそうとしたとか。

しかし、ずらりと並んだ三色の証明写真風な絵を見た感想はやっぱり、
気持ち悪い、だった。

全ての子どもは自分の父親の顔を知っていて、
似顔絵を描くことに抵抗がないくらいには好感を持っているとか、
父親とはすべからく黄色人種であり、カラーリングもしていないとか、
そういうこの絵を描くために必要な様々な条件を、
考えることすらなく、当然の事実のように思っている世界なのだろうか。

よしんばこの園の子どもたちが全員父親と一緒に暮らしていて、父親のことが大好きで、
且つ全員が黄色人種であるとしても、
その顔だけを描きたいと思う子もいれば、
体やいつも着ている服まで詳しく描きこみたい子や、
父親と一緒にどこかへ出かけている絵を描きたい子だっているんじゃないだろうか。

単純に「お父さんの絵を描いてみよう」と提案しただけならば、
絶対にこんな画一的な作品はできあがらないはずで、
そこになんだか息苦しさを感じてしまうのは、
私の心のトラウマか何かによる勝手な感傷なのかもしれないが、
やっぱり気持ち悪いのである。

教師たちはどんな風にして、子どもたちにこの絵を描かせたのだろう。

実はこの幼稚園は、娘の入園先の候補の一つだったのだが
(まだ2歳にもならないのでだいぶ気が早いのだが)
この絵を見て、やっぱりやめよう、と思ってしまった。

私にもなかなか教育熱心な一面があるようだ。

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人間の成長とか心の性質とか

子どもを孕み産み育てるという体験を通して、
人間とはどういう生き物なのかを間近で見る機会に恵まれまくっている私である。
つくづく母になるとはすごいことだと思う。
男が過酷な修行により肉体と精神を痛めつけ続けてやっとどうにか行き着くことができるかどうかという悟りの境地までも、
母になることで極めて容易にたどり着くことができる(ような気がする)。

どっかの誰かの子宮に受精卵として誕生した瞬間から、
しわくちゃの老人になって息を引き取る日まで、
人の体は大きく変化していく。
それは生まれてからずっと右肩上がりで、ある時から緩やかに下降する。

一方、心は全く違っていて、
初めから完全な状態としてそこに存在する。
(なんなら子宮に誕生する以前から存在するようにも思うが、その辺を語りだすとスピスピした臭いがしてくるので、ここでは割愛する。)

心は、体が周囲の環境から得た知識や体験を刺激にして、どんどん形を変えていく。
けれど、それは体のように成長したり退化したりする類のものではなく、
その時の状況により、うねうねと変幻自在に形を変える。
スタートもなければゴールもない。
そもそも心と時間とは全く関係ないので、
劣化することもないし、筋トレも必要ない。
癖はあるけれど、繰り返すことをやめれば、すっとほどけていく。

自分を顧みても、37歳とはもっと大人だと思っていた。
だけど実際は、子どもの頃と中身は何も変わってないと思う。

そんな性質を持つ『心』というものが、
1歳の人にも37歳の人にも、同じように装備されている。
それをどう使うか、ただそれだけのこと。
だから私は、子どもに赤ちゃん言葉で話す人を見ると、恥ずかしくなることがある(全員にではない)。
両者の体の年齢と心の整い具合が真逆だったりするからだ。
自分の心の整い具合をわかってやってる人の時は、イタくない。

チケット売り場に「大人」「小人」という表記を見ることがあるけど、
あれは全くその通りだと思う。
子ども、という種類の人間ではない。
ただ、小さい人、産まれてからの年数が比較的少ない人、それだけのことなのだと思う。

特にオチはない。


夕暮れのカフェでの出来事

ある日の夕暮れ、所用で都内の某下町にひとり出かける。
軽めの夕食を取るため、目についたカフェに入った。
街でよく見かける、やや高級感を売りにした感じのチェーン店である。
この手の店は、庶民派のカフェと比べると、コーヒー1杯の値段は3倍ほどするが、
そのぶん落ち着いてくつろげるオトナ空間(場所によってはジジババの社交場)となっているので、
そろそろいいオトナである私には、なかなか快適な場所。

スタンダードなタイプのホットサンドを注文してから、
読みかけていた本を取り出し、しばし読書に耽っていると、
アルバイトと思しき若い女の店員さんが、料理を運んできてくれた。

がさつという程ではないけれど、どことなく無造作というか、
自分の体が指先まで存在していることを自覚していないような感じの動きで、
音にするなら、べしゃ、とか、ぼとっ、とかいう感じで(実際にそんな音がしたわけではなく、あくまでもイメージ)私の前にフォークと皿を置き、
マニュアル通りの台詞で注文の品が揃ったことを確認した彼女は、
こちらに一瞥もくれずに去って行った(決して機嫌が悪いわけではなく、彼女にとってはこれが普通なのだと思う)。

いかにもアルバイトな感じといえばそれまでだが、
チェーンとはいえ、ちょっとお高いこのお店。
スタッフの教育はもう少ししっかりやった方がいいのではなかろうか。
お客の年齢層も高いし、めんどくさいじいさんとかに捉まったら、いろいろめんどくさいぞ?
・・・などと、そんなお前こそがめんどくさいよという感じの老婆心を抱きつつ、フォークに手を伸ばした時、私は違和感に気付いた。

あれ・・・フォークの向き、逆やで。

フォークはお箸を並べる時のように、横向きに置かれていたのだが、
その場合、通常は持ち手を右にセットされるはずだ。
しかし私の目の前にあるそれは、持ち手を左側にして置かれていた。

いや、もちろん構わないのだ。
フォークの向きなんて、縦だろうが横だろうが裏返っていようが、一向に困ることはない。
ファミレスにいけば、向き云々以前に、フォークを取り出すところからセルフなのだし、
目の前にセットしていただけるだけで十分ありがたいことなのである。

しかし。
このチェーンとはいえ、ちょっとお高くとまったこのお店で、
この待遇はいかがなものか。
店に漂う高級感が台無しになってしまっているが。

・・・いや?
もしかしてこれは、彼女がわざとやったことなのでは?!
もしかして、私が店内に入ってからの挙動を丹念に観察して、
「あ、この人、左利きなんだわ」と鋭く見抜き、
さりげなくフォークの向きを逆にしたのではあるまいか?!

でも私、思いっきり右利きですけど。

しかしもしかして、私の挙動の中に、
明らかに左利きの人間しかしないようなことが含まれていたのかもしれない。
だとしたら、大変申し訳ないことをした。
彼女にはまったくの濡れ衣だ。

私は心の中で彼女に詫びてから、フォークを手に取り、付け合わせのサラダを食べ始めた。
おいしい。
近ごろ野菜不足だった私の体は、嬉々として野菜の養分を吸収していく。

が・・・なんか食べにくい。
大きな皿の上に、サラダの入った小皿とホットサンドが配置されているのだが、
このサラダの小皿が、なんとも手を伸ばしにくい位置にあるのだ。
この配置では、サラダを食べにくいし、なおかつホットサンドもなんだか取りにくい。
そういえば見た目もあまりパッとしないような・・・?

そう思いながらふと顔を上げると、テーブル脇に置かれたメニューの写真が目に入った。
自分が注文したホットサンドの写真を見た時、
私は違和感に気付いた。

あれ・・・お皿の向き、逆やで。

メニューの写真にあるそれと、私の目の前にあるそれとは、
180度向きが逆だったのである。
試しに皿をくるっと回してみると、あら不思議。
料理はすこぶる食べやすいうえに、ホットサンドもとても美しく見える。

いや、もちろん構わないのだ。
ホットサンドが私に背を向けていようが、サラダが取りにくかろうが、
自分でいいように配置を変えればいいだけのことだ、一向に困ることはない。
ファミレスにいけば、向き云々以前に・・・以下略。
とにかく目の前に料理を運んでいただけるだけで十分ありがたいことなのである。

しかし。
このチェーンとはいえ、セレブ感を売りにしているこのお店で、
この待遇はいかがなものか。
店に漂う雰囲気が、もはやお安いコーヒーショップと同等に思えてきてしまっているが。

・・・いや?
もしかしてこれは、彼女がわざとやったことなのでは?!
もしかして、私が店内に入ってからの挙動を丹念に観察して、
「あ、この人、ホットサンドを裏から見るのがたまらなく好きなんだわ」と鋭く見抜き、
さりげなく皿の向きを逆にしたのではあるまいか?!

あるいは、大切な人を亡くした私が、彼と通った思い出のこの店で、
あたかも私の向かいの席に彼が座っているかのようにイメージして、
彼が大好きだったホットサンドを一緒に食べようと思っていることを見抜き、
架空の彼の方へ向けてホットサンドを配置してくれたのかもしれない。
そんな粋な計らいだったのかもしれない。

もちろん私には、そんなおかしな性癖も、亡くした人もいないが、
しかしもしかして、私の挙動の中に、
明らかにそのような人間しかしないようなことが含まれていたのかもしれない。
だとしたら、大変申し訳ないことをした。
濡れ衣の重ね着だ。

私は彼女の壮大な想像力に思いを馳せつつ、静かに料理を味わった。

世の中は実に不可思議で、多面性に満ちている。

6月8日 Billboard Live TOKYO

敬愛するGotch氏のソロライブに行った。
六本木のビルボード、私にとってはとてつもなくオトナなオサレ空間である。

しかし狭いハコにぎゅうぎゅうのもみくちゃスタンディングライブに、
そろそろしんどい気持ちが出てきていた自分には、
もはやこういった場の方が合っているのではなかろうか。
だってもう37だもの。十二分にいい大人でっせ。

本音を言えば、娘を託児所に預けて主人と二人でデート気分で出かけたかったが、
以前アジカンのライブでそれを試みたところ、
ライブの途中で娘が発熱、あえなく途中退場してお迎えという事態になった。
今回は絶対に中座したくない私たちは、
2日間ある公演に別々に行くことにしたのである。

そんなわけで、初めてのビルボードにお一人様で乗り込んだ私。
この場に浮いていないだろうかと妙な緊張感が湧き上がる中、
精一杯の平静を装いつつ、
カウンター席で一杯やりながら、Gotch & The Good New Timesのライブを楽しんだ。

結論から言えば、まことに素晴らしいライブであった。

ASIAN KUNG-FU GENERATIONというバンドに出会い、後藤氏の歌を聞き続けて、
もう10年ほどになるかと思うが、
こんなにも活き活きと楽しそうな氏を、私は初めて目にした気がする。
・・・などと言ってはアジカンに失礼かもしれないが。
バンドの時はフロントマンとして否が応でも背負っている、何か重くて大きなものを、
ソロの時はすべて投げ出して、本能のままに、思うがままに、演奏しているように見える。
その様が、見ていて実に気持ちいいのだ。

もちろん、しっかりとした音楽的技術や高い完成度が土台にあればこそのものだけど、
どんな曲をどう演奏するかというのはもはや二の次で、
ただ、音が始まり、彼らが踊りだすだけで
(実際には演奏しているのだけど、イメージとしては全員が好きなようにダンスをしているように感じられた)、
その楽しげな空気がびしびしと伝わってくる。

音は私を包み込み、頭の中を極彩色の絵の具でぐちゃぐちゃにかき回して、
最後にはキャンバスごと、どこかへぽーんと投げ捨ててしまう。
気付けば私は雲の上にいて、体なんてないみたいに、自由に飛び回っている。

何にも考えられない。ただ喜びだけがそこにある。
歌うことの喜び。奏でることの喜び。
音と絡まり踊ることの喜び。

そういう感じ。

こんなライブをするようになったのだな。
どんどん進化していくのだな。
飽きっぽい私が、こんなにも長く特定のアーティストを追いかけ続けていられるのは、
彼が常に進化し続けているからだ。
そして、それでもなお変わらないものがあるからだ。
Gotch氏の声が私は本当に大好きで、ずっと聞いていたいと思うほどだ。
いや、実際ずっと横でしゃべり続けられたら、いい加減黙ってくれと言ってしまうだろうが。

この夜の氏の演奏から、何かとても大切なものを受け取った気がしている。
それが何なのか、言葉にはできないし、今はまだしない方がいいように感じられる。

いつもの位置に飾られているチベットの旗を見つめながら、
しばし時空を彷徨う夜であった。
ぜひまたこういう場で演奏してほしい。

以上、選ばれし民の感想。


8th June
Gotch & The Good New Times at Billboard Live TOKYO

子守歌

彼女を見るたび 思い出すのは あの日の自分
ちっぽけで 臆病で すべてのものが怖かった

あんな思いを 君がしなくても済むようにと
先回りして 手を焼いて 守ってるつもりだったんだよ

君は 私の手をするりと抜け出して 駆け出して行った
せまりくる恐怖に 真っ向から突っ込んでいった

傷つくことが こわくないの?

なぜ?
だって何も私を傷付けないよ
なにを怯えているの?
大丈夫 私が守ってあげるから
安心して おやすみ

そうだね 守られていたのは 本当はいつも 私の方だった
不安な夜 小さな寝息を子守歌にして 眠っていたのは
いつも 私の方だった

ある恋の物語

ずっと夢見ていた、その瞬間のこと。
素敵な景色の見える場所で、おいしい料理を食べたあとで、幸せに包まれて、
綺麗に着飾って、かわいらしく笑って、その言葉をもらうんだと。

だけど現実はあまりにも残酷。
ファストフードを食べたあと、いつもの部屋で、テキトーな服で、
涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔で、全てに絶望しきって、
もうどうでもいいと叫んでいた。

いつもそう。いっつもそうなんだよ。
ここってときに、期待はいつも裏切られる。

なのに、その後ふいに訪れる、大きな愛はなんだ。
こんなにも広くて深くて、こんなにも強かったのか。

ちっぽけなこだわりも夢も木っ端微塵に吹っ飛ばして、
申し訳なさそうに、ごめんと言いながら私を包むそれの、
なんと宇宙的なスケールだろう。
かなわない、と思い知る。

いつもそう。いっつもそうなんだよ。
予想もしなかった形で、幸福は私の元にやってくる。
とても両手に抱えきれないほどの、超特大のやつが。





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