スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

『奇跡のコース』と、私の望む世界


『奇跡のコース』という本を読んでいる。
とても分厚い本で、読み始めてかれこれ3年になるが、まだ半分も進んでいない。
そして、読んだ内容を完全に理解するにも至らない。
毎朝、一滴の水を落とすように、少しずつ少しずつ、心にしみこませているのである。

先日この本を読んでいて、ふと思い出したことがある。

かれこれ10年ほど前。
とても親しくしていた友人がいた。
当時の私は、夢と希望と向上心に満ち溢れ、
自分の人生は他ならぬ自分自身が切り開くのだという気概に満ちていた。

そんなとき、彼と知り合った。
当時の彼の向上心と行動力と人脈とは、私にとって理想であり、憧れであった。
私たちはなぜか妙に意気投合した。
彼は、いわゆる人脈を広げる系だとか自己啓発系の様々なイベントや仲間との飲み会に、いつも私を誘ってくれた。
都会の居酒屋で、二人で延々と、夢を叶えて人生の成功者となる方法について語ることもあった。
私たちは同志であり、私にとって彼は、少し先を行く人生の先輩でもあった。

ある時、彼がこんな話をした。
「この世界には8:2の法則というのがある。つまり、80%の貧しい人と20%の裕福な人とで世界は成り立っているのだ。」と。
その手の話は私も聞いたことがあったので、あぁ、そうらしいねえ、と頷いて、
彼の言う世界を想像した。

多くの貧しい人たちと、一握りの裕福な人たち。
そのアンバランスな世界。
酒のせいで感傷的になっていた私は、とても悲しい、やるせない気持ちになって、言った。

それって、どっちが幸せなんだろうね・・・。

すると彼は、目を剥いて大層おどろいた顔をしたのだ。

「えぇっ?!!!」

何言ってんの?!それ迷う余地ある?!当然裕福な方でしょ?!
俺ら、そこを目指してがんばってこうって話してんでしょ?!

私は言葉に詰まった。
そうなんだろうか。
確かに私は、なんでも夢を叶えて、思い通りの人生を歩みたいと思う。
そのためにはお金はたくさんほしいし、裕福であるに越したことはない。
だけど、じゃあ、その20%に入れれば、私はそれで満足なんだろうか。
残り80%の人がいることを知りながら、
私は本当に幸せでいられるのだろうか。
かといって、もちろん80%に入りたいと思うわけではない。
それはイヤだ。
イヤだけど、でもなんか変じゃないか。
本当にその2択しかないのだろうか。
本当にそれしか、幸せになる方法はないのだろうか。

私は急激に彼との距離を感じ始めていた。
ついさっきまでは、同じ夢に向かって、理想の未来を語り合っていたはずだ。
だけど、私たちは本当に同じものを見ていたんだろうか。
もしかして私は、大変な思い違いをしていたんじゃないだろうか。
私にとって、本当に大事なものは何なのだろうか。
本当に私は成功者になりたいんだろうか。
私が喉から手が出るほど欲しかったのものは、20%に入る自分だったんだろうか。

彼には私の声は伝わらないかもしれないと感じたけれど、
私は心に浮かんだ思いを言葉にしてみた。
彼はやはり、何を言ってるのかわからないという顔をした。
そこには少しの失望の色も浮かんでいたように思う。

私は彼のことを本当に尊敬していたので、
自分の考えが間違っているのではないかという不安を、
うっすらとではあるが、ずっと抱えていた。
それでも、自分の中に生じた違和感を無視することができなかった。
言葉にせずにはいられなかった。

どうすればいいのかはわからないけれど、
私は、そんな世界はイヤだ。
どちらかを選ぶのではなく、何かもっと違う方法で、世界を創り変えたいのだ。

この日をきっかけに、私たちは徐々に疎遠になっていって、
ついには連絡もとらなくなってしまった。

・・・という出来事である。

そして10年が経った今、私の目の前にある本には、明確にその答えが書いてあった。


 ほかの者が喜べないときに、自分だけ有り難いと思える者がいるだろうか。
 それにほかの人が自分以上に苦しんでいるのを見たからといって、
 自分の苦しみが和らいだといえるものなどいるだろうか。
    ― 『奇跡のコース 学習書 第百九十五課』


10年前の私が、軽やかに踊りながら喜んでいるようだった。
そうだ、私が見たいのは、そういう世界だ。

そして同時に、彼との出会いは自分にとってとても大切なものであったことに気付いた。
自分の中に生じたほんの少しの違和感を、無視せずにいられたこと。
だれ一人賛同してくれないとしても、その感じを自分の言葉ではっきりと表すこと。
それによって、自分の本当の想いに気付けたこと。
途方もない絵空事のように感じられて、どうすれば叶うのかもわからなかったけど、
それでもありったけの勇気をふりしぼって宣言できたことが、
私の中の何かを確かに目覚めさせた。
あの時、そのきっかけとなる役割を引き受けてくれた彼のおかげで、今の私がある。
全てはつながっていたのだ。

最近忘れかけていたけれど、私には今年の始めに自分に対して宣言したことがある。

「この世の全てに愛を見る。」

私は、誰一人置いていきたくない。
幸せになるなら、ひとり残らずみんな一緒だ。
それしかありえないと思っている。
たぶん、物心ついたころからずっと、そう思っているのだ。
馬鹿げた理想論だと言われようがなんだろうが、
たぶん一生、そう思い続けて生きていくのだ。

スポンサーサイト

読書の定義

物心ついたときから、本が好きだ。

母によると、幼少期の私は、
読み聞かせしてもらった本をあっという間に暗記してしまったり、
恐ろしく早くに字が読めるようになったりと、
かなりの神童っぷりを見せていたらしい。

確かに、記憶をたどってみても、
手に取った本に載っている漢字は全て知っていて、
読めない字に行き当たったことはほとんどなかったように思う。
また、言葉の意味も、辞書を引かずともなんとなくニュアンスを理解していた。

言語センスに関しては、天才的なものを持っていたのかもしれない。

たくさんの童話や物語を読んだし、
高校に入った頃からは、国内外問わず現役作家の小説をよく読んでいた。

そんな私は、読書について独特の定義を持っていた。
そのことが発覚したのは20代の後半、ある友人と話していたときのことだ。

その友人は大変な読書家であった。
月に何十冊もの本を読むのだと聞いたとき、
心から尊敬の念が湧き上がった。
私の知らない素敵な作家を知りたかったし、知っている作家の話もたくさんできそうだと思い、
わくわくしながら、一体どんな本を読んでいるのかと友人に問うてみた。

すると、彼があげつらった本は、
ほとんどがビジネス書や自己啓発書の類だったのだ。

え・・・・・?

私は激しく動揺した。
それって、それって・・・・・・読書なの??

その時気付いた。
私にとって、読書とはすなわち小説やエッセイなどの、いわゆる文学作品を読むことであったのだと。

ビジネス書や自己啓発書というのは、目的があって読むものであると認識している。
なんらかの知りたい情報が(それもかなり具体的に)あって、そのための知識を得るためのもの。
それは、私の中では読書ではない。
知りたい情報があって、それが書いてある、もしくは書いてありそうな本を読む。
その行為は私にとってただの『調べもの』であり、あるいは『勉強』なのだ。

私にとっての読書とは、芸術に触れること。
フィクションでもノンフィクションでもかまわないが、とにかく文学的、芸術的に優れた美しい『作品』であることが大前提だ。
読書とは、絵画や演劇やなんかの芸術と同じように、
作家の書いた文章という芸術作品を楽しむためのものであり、
単に知識を得るためのものは読書でも何でもないのである。

・・・と、ずっと思っていた。
それは自分にとってあまりにも当然のことだったので、誰に確かめることもしなかった。

だってさ、だってさ、だから「趣味は読書です」っていうセリフが成り立つんじゃないの?
ただ知識を読み漁るのなら、それはただのザッピングだろ?ブログと一緒だろ?趣味なのそれ?

冷静に考えてみれば、この世界にはそういった文学作品以外にも山ほど本はある。
書店には『文学』というジャンルの書棚があるくらいだ。
しかし私は全くそのことに気付いていなかった。

どうりで、月に何十冊も読めるわけだ・・・。

私の彼に対する尊敬の念は一瞬にして塵と化した。
大変失礼な話ではある。

今はもう一般論としての読書という行為について誤解はない(つもりである)が、
それでも、自分にとっての読書の定義は、依然として変わらない。
ため息をつくほどの美しく秀逸な文学作品に触れること、
それだけが、私にとっての読書である。

そういう意味では、最近は本当に読書をしていない。
久しぶりに濃厚な純文学でも読んでみようかしらん。
しかし驚異的に可愛い1歳児の相手をしながら、そんな優雅なことをする心の余裕があるのかしらん。
非常に悩ましいところである。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。