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読書の定義

物心ついたときから、本が好きだ。

母によると、幼少期の私は、
読み聞かせしてもらった本をあっという間に暗記してしまったり、
恐ろしく早くに字が読めるようになったりと、
かなりの神童っぷりを見せていたらしい。

確かに、記憶をたどってみても、
手に取った本に載っている漢字は全て知っていて、
読めない字に行き当たったことはほとんどなかったように思う。
また、言葉の意味も、辞書を引かずともなんとなくニュアンスを理解していた。

言語センスに関しては、天才的なものを持っていたのかもしれない。

たくさんの童話や物語を読んだし、
高校に入った頃からは、国内外問わず現役作家の小説をよく読んでいた。

そんな私は、読書について独特の定義を持っていた。
そのことが発覚したのは20代の後半、ある友人と話していたときのことだ。

その友人は大変な読書家であった。
月に何十冊もの本を読むのだと聞いたとき、
心から尊敬の念が湧き上がった。
私の知らない素敵な作家を知りたかったし、知っている作家の話もたくさんできそうだと思い、
わくわくしながら、一体どんな本を読んでいるのかと友人に問うてみた。

すると、彼があげつらった本は、
ほとんどがビジネス書や自己啓発書の類だったのだ。

え・・・・・?

私は激しく動揺した。
それって、それって・・・・・・読書なの??

その時気付いた。
私にとって、読書とはすなわち小説やエッセイなどの、いわゆる文学作品を読むことであったのだと。

ビジネス書や自己啓発書というのは、目的があって読むものであると認識している。
なんらかの知りたい情報が(それもかなり具体的に)あって、そのための知識を得るためのもの。
それは、私の中では読書ではない。
知りたい情報があって、それが書いてある、もしくは書いてありそうな本を読む。
その行為は私にとってただの『調べもの』であり、あるいは『勉強』なのだ。

私にとっての読書とは、芸術に触れること。
フィクションでもノンフィクションでもかまわないが、とにかく文学的、芸術的に優れた美しい『作品』であることが大前提だ。
読書とは、絵画や演劇やなんかの芸術と同じように、
作家の書いた文章という芸術作品を楽しむためのものであり、
単に知識を得るためのものは読書でも何でもないのである。

・・・と、ずっと思っていた。
それは自分にとってあまりにも当然のことだったので、誰に確かめることもしなかった。

だってさ、だってさ、だから「趣味は読書です」っていうセリフが成り立つんじゃないの?
ただ知識を読み漁るのなら、それはただのザッピングだろ?ブログと一緒だろ?趣味なのそれ?

冷静に考えてみれば、この世界にはそういった文学作品以外にも山ほど本はある。
書店には『文学』というジャンルの書棚があるくらいだ。
しかし私は全くそのことに気付いていなかった。

どうりで、月に何十冊も読めるわけだ・・・。

私の彼に対する尊敬の念は一瞬にして塵と化した。
大変失礼な話ではある。

今はもう一般論としての読書という行為について誤解はない(つもりである)が、
それでも、自分にとっての読書の定義は、依然として変わらない。
ため息をつくほどの美しく秀逸な文学作品に触れること、
それだけが、私にとっての読書である。

そういう意味では、最近は本当に読書をしていない。
久しぶりに濃厚な純文学でも読んでみようかしらん。
しかし驚異的に可愛い1歳児の相手をしながら、そんな優雅なことをする心の余裕があるのかしらん。
非常に悩ましいところである。

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